PAINTER / TEACHER / STORY

上手い絵より、
いい絵を。

名古屋を拠点に、描くことと教えることの両方に向き合い続けてきた画家・山田俊彦。 幼い頃に芽生えた感覚、高校・予備校・大学・社会人時代を通して深めた葛藤、 そして教室「創」で育ててきた数え切れない表現の時間。 このページは、山田俊彦さんの歩みと絵への信念を、作品とともにたどる一枚の自伝です。

山田俊彦の作品イメージ
強い色彩、押し出しのある画面、音楽や感情のうねりまで含めて描こうとする現在の作品世界。

絵は、うまさだけでは終わらない。

山田俊彦さんが長年大切にしてきたのは、技巧の優劣だけで作品を測らないということ。 その人にしか出せない感覚、その時にしか描けない熱、その絵が本当に届くかどうか。 そこにこそ、絵の価値があると考えています。

上手に描けることよりも、心に残ること。整っていることよりも、その人らしいこと。 教室でも作品制作でも、ずっと追いかけてきたのは「いい絵」とは何か、という問いでした。

描き始めの原点

幼稚園の頃、遠近感があると褒められたことが、山田さんにとって最初の小さな原点でした。 小学生の頃は平凡だったと語りつつも、粘土細工では賞を得るなど、すでに手の感覚と形への関心は育っていました。

教室で守りたいこと

子どもから大人まで、誰もが安心して表現できる場をつくること。 「こう描くべき」を押し付けるのではなく、その人の持ち味を見つけ、伸ばしていくこと。 それが、教室「創」の根底にある考え方です。

山田俊彦の歩み

褒められた幼少期から、厳しい修練、社会の風に揉まれた会社員時代、そして教える立場へ。 一直線ではないからこそ、現在の言葉と作品に厚みがあります。

  1. 幼少期〜中学時代
    幼稚園では遠近感のある絵を褒められ、小学生では粘土細工で賞を経験。中学生の時、友人の父が絵描きだったことをきっかけに本格的にデッサンに触れました。画材を揃え、先生の自宅アトリエで学び始めると、美術の成績は一気に伸び、描くことが自分の中で確かなものになっていきます。
  2. 高校時代
    稲沢高校で鈴木田俊二先生と出会い、より大きな世界へ。広い美術室で制作に打ち込み、2年生の時には全日本高校生油絵コンクールへ100号の大作を出品して入選。旧東京都美術館で自作が展示された経験は、自身の可能性を現実として感じた重要な出来事でした。
  3. 予備校・浪人時代
    河合塾では徹底的に鍛えられ、講評会で最下位近くになる悔しさも味わいました。二浪ののち、どうしても東京へ行きたいという思いから江古田の研究所へ進み、池袋西武でアルバイトをしながら制作を継続。うまくいかない時期を通して、表現に向き合う粘り強さが培われていきました。
  4. 大学・社会人時代
    最終的に名古屋造形芸術短期大学 洋画科へ進学。大学で学べた2年間に感謝しつつも、その後は一般企業で約10年間働くことになります。社会の厳しさにさらされ、理想だけでは生きられない現実を身をもって知ったこの時期は、後の教室運営や人への向き合い方にも大きく影響しました。
  5. 教える道へ
    絵の先生仲間との出会いを機に、「これだ」と感じて初めて先生に。何も分からないまま無我夢中で始めた教室でしたが、生徒は少しずつ増えていきました。自らも制作を続け、「行動」で3年目に入選。さらに名古屋のGALERIE141で5回連続の個展を開くなど、作家としても前進していきます。
  6. 停滞と再起、そして現在
    バブル崩壊後の長い不況、精神的な不調、団体での挑戦と挫折。厳しい評価を受けた経験も含めて、山田さんの絵は少しずつ研ぎ澄まされてきました。現在は「押し出しの強い絵」を目指しながら、ベルリオーズ《幻想交響曲》やストラヴィンスキー《春の祭典》など、音楽を題材にした制作構想も進行中。今なお、描くことは止まっていません。

個性を尊ぶ

絵には年齢や立場ごとの持ち味がある。幼児は幼児らしく、大人は大人らしく、その違いを価値として見つめます。

表現を育てる

受験指導にも対応しながら、単なる技術習得にとどまらず、描く人の意思と感覚が見える作品へ導きます。

満足できる教室へ

誰もが安心して続けられ、描くことを好きでいられる場所を目指して、教室「創」はこれからも歩み続けます。

教室について

造形絵画教室 創では、幼児・小学生の児童画や工作から、中高生のデッサン・油絵、一般の方、受験指導、通信教育まで、幅広い表現に対応しています。 子どもの可能性を引き出し、それぞれの個性を大切にする指導を行っています。